大手ディベロッパー調査部会の経過・研究概要と課題について 大手ディベロッパー調査部会事務局 1.調査部会の課題、メンバーおよびスケジュールについて 本調査部会は、本年度より、大手ディベロッパーの研究を開始した。2年間の計画で成果の出版も念頭において研究をすすめている。 構成メンバーは、責任者 庭野 峰雄、事務局 今井 拓、メンバーは、鵜野 真勝、坂庭 国晴、高瀬 康正、田淵 博、徳永 潤二である。 部会の目的は、@大手ディベロッパーの歴史的発展過程、及び経営・財務、開発手法の特徴を把握すること 及び、A 金融資本と結びついた大手ディベロッパーによる日本の経済・行政および都市の支配の問題性を明らかとし、対案を提起することである。 年度の当初において確認した課題、方法およびスケジュールは次の通りである。 課題: 都市部において土地の大量買占め、大量所有、大規模な不動産開発を進める大手ディベロッパーは財界・大銀行と結合し、今や日本経済の支配的役割を果たし、政治をゆがめ、都市や自然を破壊する役割を果たしている。大手ディベロッパーをさまざまな角度から分析し、国民的立場からその問題性を具体的に明らかにし、日本の政治・経済・都市の本来のあり様をまとめる。2年後に出版をめざす。 方法: @大手ディベロッパー(三井不動産、三菱地所、森ビル、住友不動産、東急不動産)の歴史的発展過程、政治・行政との癒 着過程などを社史等から調査・分析 A大手ディベロッパーの今日における経営戦略・財務・開発手法等を有価証券報告書、書籍、ヒヤリング調査等に基づき分 析 B不動産投資におけるアメリカの戦略、日本における展開と金融・不動産資本、政府の政策の動向を書籍やヒヤリングによ り調査、分析 C金融・不動産・ゼネコンおよびそれに加担する政治・行政による都市の再開発、不動産バブルの歴史的過程(1970年代初 頭、1980年代終盤)とその分析 D今日の「都市再生」における開発手法と法制度、財界・ディベロッパーと政治・行政との関係の分析 E国民の立場からの提言 スケジュール: 2004年 3月 企画案の検討、スタッフの補強と大まかな作業分担、財務分析の方法 4月〜6月 大手ディベロッパーの歴史的発展過程の資料収集と分担、調査・分析 7月〜10月 今日における大手ディベロッパーの財務分析・経営戦略の資料収集と 分担、調査・分析 11月〜12月 各分担の執筆と討議 中間報告 2005年 1月 B C Dの構成内容の検討とおおまかな任務分担 2月〜4月 不動産投資におけるアメリカの戦略と日本における展開、金融・証券と不動産戦略と政府の政策の調査 ・分析 5月〜7月 不動産・都市開発と政府・行政の政策の歴史的過程の分析 8月〜9月 今日の都市再生における開発手法と法制度、政治・行政政策の分析 10月〜12月 国民の立場からの提言の検討 各分担の執筆 2006年 1月〜2月 執筆原稿の最終検討 4月 出版 2.調査部会経過 今年度は、会議を8回開催した。当初、大手ディベロッパーをめぐる基本的な状況を把握する目的で、建設省の一連の不動産業ビジョンについて検討し、また、金融資本とディベロッパーとの関係について議論した。その上で、上記の目的@について、三菱地所、三井不動産の社史を検討し、また森ビル・森トラストの経営の特徴について報告し、議論した。目的Aについては、本格的な検討に至っていない。来年度の課題である。調査部会の議題と報告テーマは次ぎの通りである。 第1回調査部会 3月24日 @上記企画案の検討・確認 A当面の方針:不動産業政策の変遷を押さえて行く B大手ディベ ロッパーについての代表的文献・資料 第2回調査部会 4月28日 庭野「建設省・不動産業ビジョン(1986年)」、今井「新不動産業ビジョン(1992年)」の内容 紹介・検討 第3回調査部会 5月26日 @庭野「新不動産業ビジョン」、今井「不動産業リノベーションビジョン報告書(1997年)」の 内容紹介・検討 第4回調査部会 7月8日 金融資本と不動産開発について @ 今井「銀行、信託銀行・生保の不動産投資」 A 徳永「 バブル経済期以降の金融機関の不動産投資についての若干の考察――『平成5年版 経済白書』を 中心に」 第5回調査部会 8月25日 @庭野「三菱銀行社史の検討」 A今後の調査研究について 第6回調査部会 9月16日 @坂庭 社史研究「三井不動産40年史」 A中間報告の内容 第7回調査部会 10月21日 @高瀬「森ビルの研究――都市再生の実像を探る――」 第8回調査部会 12月1日 @大手ディベロッパー年表 A今後の研究について B中間報告書所収する資料について 3.調査部会で議論された内容について 第1回調査部会では、企画内容、スケジュールについて検討・確認するとともに、文献・資料から、建設省の一連の不動産業ビジョンについて検討し、大手ディベロッパーを取り巻く状況の変化と政策動向を把握することとした。 そこで、第2回、第3回の調査部会では、建設省不動産業ビジョン(1986年)、新不動産業ビジョン(1992年)、不動産業リノベーションビジョン(1997年)について検討した。 一連の不動産業ビジョンの内容と問題点 不動産業ビジョンは、低成長期以降の製造大企業による極端な輸出主導型経済が日米貿易摩擦と円高不況によって破たんしたもとで、内需主導型の新しい成長パターンを創出することを展望し、不動産業を経済構造転換を担うリーディング産業と位置づけた。不動産業の内部では、高齢化等の進展により、分譲部門の伸び悩みが予想される下で、流通・賃貸・管理分門の成長に期待がかけれられるとともに、都市機能の高度化、リゾート開発、都市部における再開発の展開など新たな実体的需要を喚起して、新しい経済成長パターンを作り出す産業とされたのである。 そして、そのような新たな経済発展の傷害として、分譲地の取得難、自治体の宅地開発規制による採算性の悪化、流通部門の未整備、借地借家法の制約、都心部の地価高騰、大規模修繕のノウハウの蓄積不足等が指摘され、これらの課題に対して、規制緩和、国公有地放出、自治体の都市再開発方針の明確化、不動産市場の整備、借地借家法改正、不動産開発支援税制の整備等々によって応えることを明らかにしたのである。 それは、1986年、バブル経済期に入りつつあり、大規模プロジェクトが動き始める中で、都市再開発に弾みをつけようとする報告書であり、バブル経済を実体経済面から支えていく不動産業主導の経済政策方針を正面から提起した文書であった。しかし、資産バブルのあれほどの展開は予想されていなかった。資産バブル自体は、ドルの相対的高金利を支えるための低金利政策の下、金融資本主導で引き起こされたものであり、不動産資本の思惑を超えて展開されたものだと言える。86年ビジョンは、実体的な都市再開発の展開による経済拡大という方向をしめしており、現在の都市再生政策による都市再開発の展開は、この限りでは86年ビジョンの実現という面がある。 新不動産業ビジョンはバブル経済の崩壊後にだされている。ニューリーディング産業という文言は消えており、不動産業は、住宅等の建設が活発になれば拡大する、また金融政策の影響をうける従属的な側面が言及されている。しかし、地価の反転上昇、不動産業の売上の大きな拡大を予想しており、非現実的なビジョンであった。新不動産業ビジョンの新しい点は、バブル経済の教訓から、PFI的な民間活力の導入や不動産証券化、土地の有効活用、所有から利用へと言ったコンセプトが提起されていることである。不動産市場をどう活性化させていくのか、ということが中心的な政策課題となっていく源流が示されている。 バブル経済期の土地投機と今回の超高層建築物の乱開発は、とりわけ地価の動向において全く異なっている。資産バブルが展開されるにあたっては、東京都心部にかなりの新規オフィス需要が存在していたことが大きい。今日においては、新規需要は無く、労働人口の減少によりマクロ的には需要減である。さらに、金融的な状況は、今日においては、金融機関に対する自己資本比率規制が強化されており、信用拡張が政策的に制限されている。この制約を突破していくためにも不動産の証券化、という手法が重視されているのである。 不動産リノベーションビジョン報告書では、バブル経済の崩壊以降の地価の下落が、調整局面に入り、都心の一等地では上昇で転じつつあるとし、マクロ的に見た地価が上昇トレンドに移ると評価した上で、不動産市場の活性化へ向けた方向を提起している。そのひとつが不動産単体の開発ではなく、「まち」をどのように形成するか、という点である。報告書ではこの点をまちづくりの実需に応える方向と呼んでいる。また、ビル賃貸業についても、建物を貸す業務から街区単位の広がりを持つ空間のコーディネートする不動産業の展開が展望されている。まちづくりの実需に応えるという点では、中小ディベロッパーの利益を反映しているとも考えられるが、街区単位の空間のコーディネートという形で、森ビルの六本木ヒルズの開発にみられるようなより大規模な民間プロジェクトの展開をも意識した展望が打ち出されている。 一連のビジョンの検討を通じて、不動産業を取り巻く状況の変化という点では、金融資本の戦略動向が大きく影響を与えている、ということが実感された。そのため、第4回調査部会では、銀行、信託・生保等の金融機関の不動産投資について理解を深めることにした。 金融資本の戦略動向の分析のため、第4回調査部会より、和光大学の徳永潤二専任講師(専門 金融論・国際金融論)に参加していただいている。 金融資本の不動産投資戦略の検討――不動産向け貸出実態の変化と位置づけを中心に―― 全国銀行の貸付状況について1969年から2001各年で推移をみると新規貸し付けが三兆1千億円から45兆3千億円、貸し付け残高で39兆2千億円から454兆1千億円に拡大する中、製造業は、新貸付で、38%から7%、貸し付け残高で45%から15%へと比率を低下させているが、不動産は、新規貸付で、5%から19%、貸付残高で4%から13%へと比率を大きく増やしている。他に大きく増大しているのは、個人が新規貸付で11%から36%、貸付残高で4%から22%へ、金融保険が貸付残高で1%から8%に拡大している。全国銀行の貸し付け状況から見ると、個人、不動産、金融・保険が比重を高め、新規貸付で56%、貸付残高で43%を占めるに至っている。新規貸出では不動産は業種別で最大の貸出先となっており、残高でも、製造業、卸売・小売業、サービス業に匹敵している。1991年から2001年の比較でも、総額で7%の減少の中で、不動産業は31%の増加となっている。しかし、構造改革の本格化以降において状況は大きく変化しており、この変化を重視する必要がある。 その点に関わって、バブル経済崩壊以降の金融機関の不動産投資を考えるにあたって、金融面の特徴として「土地本位制」の崩壊、ということがある。その下で、銀行の融資は、とりわけ1999年以降、銀行の不動産向け貸し出しは減少に転じている。貸し出し残高を見ると、2001年度の56兆7千億円から、2002年度の第3四半期のでは、53兆円と3兆7千億円もの減少となっており、落ち込みが著しい。しかし、銀行からの不動産向けの資金は、信託を経由したり、あるいは証券投資の形態が増加しつつあるため、貸出残高の変動のみで断定できるわけではない。今後、そのような経路も含めて、資料にあたり、実態を明らかにしていく必要がある。 大手ディベロッパーの経営の発展の歴史と特徴 第5回調査部会以降、個別のディベロッパー毎の問題点を深めるため社史の検討に入っている。最初に、三菱地所を取り上げた。報告と議論を通じて、@丸の内一体の軍用地払い下げをはじめとする政界・財閥の癒着問題 A丸の内再開発の動向 B300万坪の巨大開発仙台パークタウンの開発問題 CMM21開発の経緯と問題点について 引き続き深めて行くことになった。 第6回調査部会では、三井不動産を取り上げた。高度成長期の、臨海工業地帯の開発、宅地造成など、国策の展開にそって大きな利益をあげ、それを基盤に低成長期以降の宅地造成、マンション開発を展開してきたことが確認できた。 三菱地所、三井不動産は、大手ディベロッパーの中でも財閥系として先行して蓄積をすすめたが、国策との関係が非常に強く、他のディベロッパーも含めて金融・財政政策、国土政策、都市政策を中心に政策との関係を整理していく必要が明らかになった。 第7回調査部会では、森ビル・森トラストの経営について検討した。森ビルは、他の大手ディベロッパーが財閥系であるのに対して、独立の新興勢力である。森ビルの経営の特徴は、巨額の現金・預金を保有していること、バブル期に積極的な不動産投資を行わず経営的に傷ついていないこと、しかし、それ以降、債務を増やしながら大型プロジェクトを次々と仕掛けている、ということである。開発手法としても、市街地再開発事業を採用するなど、新しい動きを造りだしている。森ビルの開発事業の実態を詳しく検討する必要が確認された。また、森ビル社長は、都市再生政策の確立にあたっては、審議会などでおおいに活躍している。政界との癒着関係についても、今後、突っ込んで調査していく必要も指摘された。 4.大手ディベロッパー年表の作成 本年度は、個別の大手ディベロッパーの歴史や動向についての検討は、三菱地所、三井不動産、森ビル・森トラストに関して行ったが、この3社について、詳細な年表を作成することとし、各社に係る重要事項、一般社会動向、不動産関連社会動向を時系列でまとめた。作成には、庭野調査部会責任者があたった。 4.今後重視する研究課題と視角について 今後重視する調査研究課題と視角については、いくつかの方向が確認されている。第1は、大手ディベロッパーの事業のまちづくりに与える影響の検討である。とりわけ、震災対策を旗印に、密集市街地再開発の政策が打ち出されており、大手ディベロッパー主導の市街地再開発事業の実態を明らかにしていく必要がある。第2に、信託など金融資本と大手ディベロッパーの関係、実態の把握である。第3に、大手ディベロッパーの戦略が日本の政治・経済のあり方をどのように歪めているか、という点の把握である。 個別のディベロッパーの研究については、すでに検討に着手している大手ディベロッパー3社について、部会で議論された点を中心に調査・分析をすすめるとともに、東急不動産・住友不動産の研究に着手していく。各社の有価証券報告書等の資料についても収集をすすめていく。 また、本年度の成果として、大手ディベロパー年表があるが、今後、東急不動産、住友不動産についても拡充すること、また、年表も活用しながら、大手ディベロッパーの歴史的発展と現状について分析を深めていく予定である。
「三菱地所」の社史研究 2004.12.6 庭野 峰雄 1.岩崎彌太郎の創業に始る三菱財閥 三菱財閥の創始者岩崎彌太郎は天保5年(1834)土佐国安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた。安政5年(1858)23歳のとき土佐藩参政吉田東洋の門に入り、後藤象二郎らと開明思想を学んだ。安政6年(1859)に藩職を得、藩命により長崎で西洋事情の調査を行なう。その後土佐藩の産業振興や外国貿易、海外技術を導入した軍備拡充などを任務とした開成館に勤務する。そこで彌太郎は武器弾薬、艦船の購入や樟脳、和紙の輸出などの仕事をする。 維新後の新政府は藩営の商業活動を抑制するようになった。明治3年(1870)、開成館で要職にあった彌太郎は新政府の官僚となっていた後藤象二郎や板垣退助らと相談し、開成館の大坂出張所であった大坂商会を表向き藩会計から分離することとした。名称を九十九商会とし、藩有船3隻による海運を中心業務として発足した。彌太郎が商会の指揮をとった。 明治4年(1871)に廃藩置県が施行され、藩職を失った彌太郎は九十九商会の事業に専念する事となる。明治5年(1872)に名称を三川商会と改め完全な岩崎彌太郎の私商会として出発し、このときが三菱財閥の始まりとなる。 2.三菱財閥の形成−明治から戦前まで その後岩崎彌太郎は中央政府官僚との人脈をてこに急速に事業を拡大していく。明治7年(1874)に台湾への軍隊と軍需品輸送を受託し、8年(1875)には政府所有の13隻の汽船を無償で譲り受けている。明治14年(1881)には高島炭鉱、17年(1884)に長崎造船など明治政府から事業の払い下げを受けて鉱山、炭鉱、造船業に進出、さらにこの頃保険業、銀行業にも進出していく。 三菱は明治政府の国策と密接に連携しながら、明治の前期に一気に財閥としての形態を整えていくのであるが、三菱地所の前身である不動産関係は三菱財閥が所有する土地・家屋の管理の域を出ていない。明治11年(1878)に「地所係」が出来、15年(1882)には会計課として営繕方、地所方、製図方を置くが、不動産事業としては微々たるものであった。 しかし岩崎彌太郎は土地には関心が高く、明治16年頃より宅地や牧場地、農耕地の購入を始める。明治20年頃から新潟の大規模水田を購入し、児島湾では開拓と干拓を始めている。明治23年(1890)に丸の内の国有地85,000坪の払い下げを受け、ここに近代的事務所街を構築する構想を持って、三菱の本格的な不動産事業の展開が始まることとなる。 明治27年(1894)に丸の内における貸事務所第1号となる「三菱第1号館」が完成し、その後次々と丸の内に貸事務所を建設していくが、同時に他の地域でも宅地や家屋の賃貸、農場の経営なども手がけていく。大正3年(1914)の東京駅の開業により東京のビジネスセンターが兜町・日本橋から丸の内へ移り、三菱の不動産事業は飛躍的に発展していく。 大正9年(1920)の不動産関連事業は持株会社の三菱本社内の地所部が運営し、地所部には庶務課、設計課、工作課、材料課が置かれていた。 大正12年(1923)に当時の事務所ビルとしてはその規模と建築工法において画期的であった丸ビルをアメリカの建設会社と共同で完成させた。その後丸の内のビル建築はレンガ造に替わって鉄筋コンクリート造で造られて行く。 昭和6年(1931)の「満州国」設立と同時に三菱、三井の両財閥は「満州国」政府に1000万円の融資を行い、その後次々と傘下企業が満州に進出していく。日本の植民地政策に呼応し朝鮮、中国各地へも進出していく。 昭和12年(1937)、地所部が独立し「三菱地所株式会社」が設立された。 昭和12年には日中戦争が勃発し、日本は戦時体制に突入していく。三菱地所も軍需工場、軍事施設の建設などの軍事優先が敗戦まで続く。 3.財閥解体と不動産業としての自立 敗戦の昭和20年(1945)にGHQから財閥解体命令が出された。昭和12年に独立した三菱地所が三菱本社から引き継いだものは丸ビル他若干のビルの所有権と三菱所有ビルの運営管理業務のみであり、土地・建物の殆どは三菱本社所有のままであった。財閥解体により三菱本社所有の土地・建物は新たに設立した「陽和不動産」と「開東不動産」の2社に譲渡された。 昭和27年(1953)に、戦前に着工して工事を中断していた新丸ビルを完成させた三菱地所は、28年(1954)に陽和不動産と開東不動産を吸収合併し、丸の内オフィス街の土地・建物の大部分を所有する大不動産業者として戦後のスタートを切ることになった。 4.高度成長期の業務拡大―昭和30年から48年(第1次石油危機)まで 日本経済は昭和25年(1950)に始まった朝鮮戦争による特需などもあり、昭和30年(1955)の神武景気に始る高度成長期を迎える。 三菱地所は成長する日本企業の事務所需要を見越し、昭和34年(1959)に丸の内を近代的オフィスビル街に改造する「丸の内総合改造計画」を決定し、さらに青山、赤坂、三田あるいは名古屋、札幌等地方都市にも賃貸事務所ビルを所有していく。 この時期に新しい事業分野として特出されるのが浚渫埋め立て事業への進出である。国の重厚長大政策の元で、工業地帯構築のための大規模な臨海部埋め立てが公共工事として進められていく。これを請け負ったのが今日の大手デベロッパーである三菱地所や三井不動産であった。三菱地所は自ら浚渫船を保有して京葉臨海部の浚渫・埋め立て事業に参加していく。 一方、住宅不足の解消が国の大きな課題であった。昭和30年(1955)に日本住宅公団が設立され、32年(1957)には千里ニュータウンが着工している。昭和35年(1960)池田内閣による国民所得倍増計画の発表などもあり、国民所得の上昇に伴って借家から持ち家への需要も増えていった。持ち家はまだ戸建てが主流ながら、都市部を中心に高層共同住宅が徐々に浸透し始め、オリンピックの行なわれた昭和39年(1964)は第1次マンションブームと言われた。 三菱地所は昭和42年(1967)の三菱グループ25社による「住宅産業への進出」の提言を受けて43年(1965)に住宅部を設置し、住宅分野への本格的な展開を図っていく。昭和44年(1969)に赤坂でマンション分譲の第1号を行い、次第に都内から首都圏、各地方都市へと事業を拡大していった。 戸建て住宅の需要に対しては、昭和44年(1969)市川市八幡野で宅地分譲を行い、その年に300万坪のニュータウウン計画である仙台「泉パークタウン」の開発に着手する。その後全国に大規模な宅地開発を進め、宅地分譲と住宅販売を展開し、昭和47年(1972)には「三菱地所住宅販売株式会社」を設立して住宅の大量販売の体制を整えた。 昭和47年(1972)に「日本列島改造論」を掲げた田中内閣のもとで企業の土地投資が急増し、不動産業に対して社会的な批判が起こった。これに対して不動産業界4団体は「行動綱領」を発表して批判をかわそうとした。48年(1973)に石油危機が起こり、日本経済の停滞とともに地価の高騰も収まり、この問題もそれ以上発展しなかった。 高度成長期の三菱地所は、戦前からの事務所の賃貸事業を主力としながら、浚渫・埋め立て事業と住宅の土地・建物の分譲を新たな有力事業に加えて大手デベロッパーとしての地位を築いていったのである。 5.総合デベロッパー確立へ―高度成長の終焉からバブル期まで 昭和48年(1973)の第1次石油危機を発端に、日本経済は高度成長期が終焉し低成長の時代へ突入した。49年(1974)には戦後初めて実質経済成長率のマイナスを記録する。 不動産業界も金利負担の増加等により厳しい経営環境にさらされるが、高度成長期の人口と産業の都市集中化を背景とする都市部でのオフィス環境に対する新たな需要と、解消していない日本の低劣な住宅環境から生じる住宅需要を取り込んで成長を続けていくことになる。 昭和49年(1974)に三菱地所最初の超高層ビルである東京海上ビルが竣工し、50年代に郵船ビル、有楽町電気ビル、三菱銀行本店など丸の内ビル街の統合・建替えによる大規模化・高層化を進め、三田国際ビル、日比谷国際ビルなど丸の内以外にも賃貸ビル面積を拡大していく。 住宅分野では仙台、札幌、小樽、金沢文庫、猪名川、広島、新松戸など、大規模ニュータウン建設が全国で進められた。昭和54年(1979)には注文住宅販売を開始し、59年(1984)には住宅メーカー「三菱地所ホーム(株)」を設立して戸建て住宅分野の伸長を図っていく。また分譲マンションも大規模化、高層化を図り販売戸数を増加させていく。 この時期の特徴的な動きとして大規模な都市再開発がある。昭和49年(1974)に国土庁が発足、52年(1977)に第三次全国総合開発計画が決定、56年に住宅公団が住宅・都市整備公団になり、更に57年(1981)に発足した中曽根内閣の民間活力導入等によって大規模な開発が誘引されていった。民間では昭和54年(1979)にJAPICが発足し、大規模開発の推進を政府に迫った。 三菱地所では昭和41年(1966)から東京拘置所跡地の再開発に取り組んでいたが、53年(1978)に超ビッグな再開発「みなとみらい21」に着手し、平成5年(1993)に横浜ランドマークタワーを完成させた。昭和61年(1986)には福岡天神、平成2年(1990)には浜松駅東街区、同じく大阪アメニティパークなど市街地再開発を展開していく。 この時期のもう一つの特徴に事業の多角化が挙げられる。昭和47年(1972)の三菱地所ニューヨーク(株)の設立をかわきりに米国を中心として海外事業に進出し、平成2年(1990)にはロックフェラーグループに資本参加する。国内ではゴルフクラブ、スキー場、ホテル、ショッピングセンター、地域冷暖房施設等の事業分野に進出していった。 三菱地所はこの時期に総合デベロッパーとしての企業体制を確立したと言える。 6.政府の施策にのって生き残りを図る−バブル崩壊以降 平成2年(1990)には地価の下落が始まり、バブル経済が崩壊する。不動産業界はバブル期に購入した土地が不良債権化し苦境に立たされる。しかし三菱地所は核となるビル賃貸事業とバブル崩壊以降も堅調な需要を維持する住宅販売部門に支えられて、順調に業績を確保していく。 賃貸ビルは特定街区制度や規制緩和による容積率増を取り入れ、再開発や建替えによる建物の超高層化をすすめて貸し室面積を増大させている。平成5年(1993)に横浜ランドマークタワー、赤坂パークビル、6年(1994)に浜松アクトタワー、8年(1996)に大阪OAPタワーズ、11年(1999)に山王パークタワーが竣工した。丸の内も平成10年(1998)に丸の内再構築計画を発表し、10年間を第1ステージとして14年(2002)に丸ビルの建替え、15年(2003)に永楽ビル、15年(2004)に丸の内オアゾが完成し、東京ビル、新丸ビルが工事中ないし着工準備中である。 分譲マンションも従来の中層に加え、汐留の東京ツインパークス、横浜のザ・ヨコハマタワーズ、銀座タワーなど超高層マンションの人気が売上を支えた。 三菱地所は賃貸事業と不動産販売を核とし周辺にホテル事業、ショッピング事業、レジャー事業、海外事業、設計管理事業、地域冷暖房事業などを配した総合デベロッパーとしてバブル崩壊後の不況期にも着実に業績を確保してきた。今後は小泉内閣の進める都市再生政策にのって、市街地の再開発を一層強力に進めオフィス街の再構築と住宅の高層化に更なる需要を作り出して行こうとしている。 ディベロッパー調査部会・「社史研究」「三井不動産40年史」 04・09・16 坂庭国晴 1.40年史(1941年〜83年)の結論 三井不動産(株)は昭和16年に三井財閥の事業体制の再編の中で、三井物産本店不動産管理課が独立して創立された。前身の名前のように、三井家の財産共有制のもとでの不動産管理機関であった。創立時の継承不動産は土地80ha、建物10haなどであった。 戦中から戦後の一時期にかけては、財閥解体と混乱の中で三井家の家産管理を行う会社であった。三井家はすでに江戸時代に屈指の大企業(呉服・両替為替・貿易)であった。 三井不動産が発展し出すのは、高度成長期になってからである。その第1は、大都市臨海部の浚渫埋立事業であり、高度成長を担う大コンビナート建設を受注したことである。この事業の多額の工事収入及び開発事業の経験がディベロッパーとしての道を拓いた。 第2は、埋立事業と併行して進出した宅地開発事業である。いずれも昭和30年代から40年代にかけてで、全国的に大規模な住宅地開発、ニュータウン建設を行った。第3は、こうした宅地開発の実績と保有土地を資源に、40年代から住宅事業に取り組み、主要事業として今日に到達している。そして、第4にこれらの事業の土台となっているのは、基幹的(伝統的)事業であるビル事業で、安定した成長によって経営及び資金を支えている。 2.創立前史―三井家と三井財閥の形成 @三井家とは伊勢松阪町出身の三井高利(1694年没)を共同の家祖とする同族集団を言う。三井不動産の元祖は三井家共有の不動産管理「家方」(いえかた)であった。 三井家の出発は、1673年江戸本町(現日本銀行の一角)に開業した呉服店「越後屋」(三越)であった。最初の三井家の所有地は現在の三越本店の一角にある。 A江戸時代の前期の1710年の三井家の総資産は15万1200両、この内不動産は6万9000両と言われる。江戸時代後半の三井は呉服業と両替為替業を両輪として、北海道から薩摩に至るまで商圏を広げ、長崎貿易にも参加する屈指の大企業となっていた。 B幕末の最終局面で三井は勤皇派支持を打ち出し、鳥羽伏見の戦い(1868年)の直前には三井邸から薩摩陣屋に軍資金が運ばれた。この論功行賞で明治政府の財政を担当、新貨幣の兌換業務を当時の三井組が独占した。こうして三井財閥が形成されていったのである。 3.三井不動産の前身の推移―明治から大正にかけて @三井不動産の前身は扱う業務は三井家の不動産管理が中心であったが、明治から昭和にかけて変転してきた。明治11年、以前の「家方」は三井組地所課と改称され三井組内の部局となった。同27年には工業部と地所部に発展し、このうち工業部は政府から払い下げを受けた富岡製糸工場をはじめとする製糸・紡績工場と芝浦製作所の経営を担当し、ビル建築を行うようになり、三井不動産の原型が形成されていった。 A明治27年、その象徴とも言える三井旧本館(駿河町合同ビル・三井各社の事務所)が着工された(同35年竣工)。その後明治31年、三井地所部は三井銀行に合併され、本店営業部に所属となった(これは銀行の担保流れの土地を扱うためである)。同42年、三井合名会社が設立され、銀行、物産、鉱山の3社が株式会社となる。そして大正3年合名会社に不動産課が新設され、当時の「複雑多岐にわたる土地・建物管理」を行うこととなった。 この三井合名会社不動産課が実質上の三井不動産の前身である。 4.三井不動産の創立と財閥解体 @戦前の昭和14年ごろ、三井合名の内部で組織の根本的改革が志向され、合名は三井物産に合併(子会社会社に親会社を合併する変則的なもの)された。三井物産の本店不動産管理課となった。その2年後の昭和16年、冒頭のように三井不動産が創立された。 Aそして戦中に入り、主な役割は三井ビル等の防衛などとなった。戦中での動きでは、土木建築業への進出がある。昭和20年の終戦前、西本組(江戸時代中期から紀州徳川家に出入り)を買収し、三井建設工業を子会社として設立した。 B戦後財閥解体が行われ、三井本社の解散(昭21年)、三井物産の解散(同22年)が進められ、三井不動産は三井本社から共同施設の運営等を継承した。なお戦後民主化の中で労働組合(三井不動産従業員組合)が結成(同22年)され、経営協議会などの実施の中、経営側の人事に影響を及ぼした(後の社長・会長となる江戸英雄氏の担ぎ出しなど)。 5.高度成長期と不動産業界 @戦後一時期の三井不動産は、守りの経営姿勢でビル事業の再出発をめざしていた。昭25年三井別館(日本橋室町)を建設、創立以来最初のビル新築工事であった。 A三井不動産を含む大手不動産業界は、昭30年以降の第1次高度成長で驚異的な発展を遂げた。大蔵省の調査では昭30〜37年の間に不動産の売上高は全産業平均の3倍のペースで増加と報告。昭37年には、不動産協会が創立され初代理事長に江戸英雄が就任している。 Bこの間三井不動産は、経営3本柱の確立を図った。1)ビル事業の本格化、2)埋立て事業への進出、3)宅地造成事業への進出、である。ビル事業は昭30年の9棟(3万6千坪) から38年には15棟(8万2千坪)に増加、浚渫埋立事業は千葉県市原地区など全国主要臨海部で実施、この収益がピーク時には4割以上を占めた。その事業の関連として宅地造成事業が展開された。千葉市原地区、松戸、西生田、高幡台などの分譲事業である。 6.霞ヶ関ビルの建設とディべロッパーの時代 @昭和30年代末から40年代前半の時期は、都市化が一層進展し、人口と産業の都市集中が加速した(第2次高度成長)。この中で不動産業界はさらに活発化した。この時期の不動産・ビル業界の象徴は、三井の霞ヶ関ビルと三菱の丸の内再開発であった。 A霞ヶ関ビルの建設は、柔構造理論に基づくわが国初の超高層建築であると共に、都心部の高層化による再開発の実践という意味を持っていた。(36階・150m、昭43年完成) B一方、三井不動産はこの間宅地造成事業を本格化させた。この事業は昭35年から着手 され、右肩急上昇を続けた。昭42年には宅地分譲収入が建物賃貸収入、埋立て工事収入と並立するまでになった。また浚渫埋立事業も40年代後半に向けて本格化していく。 7.住宅事業への進出と総合デべへの志向 @高度成長の終焉が到来する中、昭47、48年に地価急騰と土地投機が起こった。これは田中角栄の「列島改造論」が引き金であり、過剰流動性、一億総不動産屋などが言われた。 こうした事態の中「大手不動産業者のみが土地買占めの元凶であるかの議論」があった。 Aこの時「民間ディベロッパー行動綱領」が不動産4団体によって採択されている。この列島改造とその後の一連の状況変化は、不動産業界に経営危機をもたらした。不動産取引の停滞による金利負担の膨張にあえぐこととなった。 Bこうした中、三井は住宅事業への進出を図る。昭43年に不動産部に住宅課を新設、マンション事業をスタートさせた。「利益率は宅地造成事業より低いが、投下資本回転率が高い」ので乗り出した。そして戸建住宅へも進出していった。 C住宅販売活動の抜本強化のための三井不動産販売の設立(昭44年)、2×4住宅の製造・販売を中心とした三井ホームが設立(昭49年)された。こうして、開発指向から住宅指向への転換が行われていった。 8.経営環境の変化と「新たな経営」へ @三井不動産は、昭30年当時ビル管理に限られていた事業を、臨海埋立、宅地造成、および住宅分野に拡げ、売上高を100倍にする「脅威の成長」を達成(昭49時点)。 この時点で、出遅れていたマンション事業を進展させるため「大量生産、大量販売方式」をとるに至った。住宅事業の本格的展開が(戸建住宅の大量供給含め)その後行われる。 A昭55年以降、「不況下の経営努力」が進められた。・住宅事業における競争力の強化、 ・マンションの商品企画戦略とレッツ方式の開発、・多様なビル建設とビル事業における新展開などである。レッツ方式とは個人の土地所有者との共同事業を中心としたシステム。 Bそして、三井の本来の地盤である日本橋室町一構の大規模再開発計画を構想、また新しい事業分野の開拓として、・商業施設事業への進出(SC事業とららぽーと船橋など)・東京ディズニーランド建設への協力、・複合開発としての大川端・リバーシティ21の開発事業等がある。 9.補足―最近の動向 @04年9月1日、民間賃貸住宅としては最大級の大規模賃貸マンション(総戸数880戸)「芝浦アイランドプロジェクト」起工。 A同7日、日本橋地区の都市再生事業、三井本館街区再開発計画・上棟、日本橋三井タワービルに。同10日、東京駅八重洲口開発の着工の発表。 森ビルの研究 ――― 都市再生の実像を探る ――― 04.12.06 高瀬 康正 (1) 森ビルの沿革 森ビルの前身は、アメリカの経済誌「フォーブス」が世界一の富豪と報じた、森泰吉郎が1955年08月に設立した森不動産である。現在の森ビル株式会社は1959年6月に設立され、社長は泰吉郎の長男、森捻だ。資本金は10億円であるが、2003年には民間最大級の再開発プロジェクト、六本木ヒルズを竣工させるなど、大手デベロッパーと肩を並べる事業規模をもっている。 ○ 事業内容 稼動ビル99棟、営業面積80万平方メートル、連結対象企業16社、2003年度売上高1400億円、経常利益240億円に達している。 総資産、8280億4800万円、流動資産1669億3900万円(現預金640億円で三井不動産の1,8倍)、固定資産6611億円(三井不動産の3分の2)、負債総額6685億2600万円、短期:1020億円、長期:5664億円となっている。売上高は、同業他社並みの実績である。 (2)主な事業 9つの事業領域がある。 @オフィスビル:アーク森ビル等 Aレジデンス:「都心居住」「職住近接」のビジョンの下、総供給戸数2300戸 Bリテール&エンターテイメント:ラフォーレ原宿、ヴィーナスフォート、六本木ヒルズ C文化・教育:教育機関「アカデミーヒルズ」 Dウェルネス:スパ、レストラン。60歳から終身利用権方式レジデンス「サクラビア成城」。「宍戸ヒルズ」「静ヒルズ」等のゴルフ場やリ ゾート施設。 Eアーバン・プランニング:地方都市での都市づくり、岐阜県との協力でJR岐阜駅に完成した創造型複合商業施設「アクティブG」。高 松市丸亀町、秋田市、小樽市、広島市などで、プロジェクト進行中。 F海外事業:海外プロジェクト展開。 Gノンアセットビジネス:森ビルの設計・施工管理や複合施設の管理運営ノウハウを、第三者の所有資産に活かす。プロパティマネジ メント業務やコンストラクションマネジメント業務など。 H IT関連事業:高速情報通信網MIIを通じたテナント向けポータルサイトの運営。政府が進める「e-japan戦略」に沿った、六本木ビル 図における最先端IT都市の提案。 (3)事業手法 ○ アークヒルズ――1967年1月、港区赤坂榎坂に土地を購入してから1986年の竣工まで実に19年間の歳月を要した。東京ドームの グランド面積の8倍、地権者500人、これを突破するのが至上命題であった。80%の人が転出を余儀なくされた。 ○ 六本木ヒルズ――森ビルは、地区内の空家に安全管理を理由にして社員が家族で住み込んだ。地域に根付いて土地買占めをお こなうという戦略を徹底したのだ。森ビルは六本木ヒルズについて、“都市の中の都市”をつくるとして、美術館や シネマコンプレックスなど文化、娯楽施設などを併設した。「エゴを通す森ビルはけしからん」との住民の叱責に「 住民の90%が賛成しているのに、一部の人の反対で着手できない。そっちの方がよほど勝手ではないか」(森社 長発言)、と居直った。結局400人が組合に残ったものの、転出者は20%にのぼり、その多くは六本木に残ること はできなかった。 ●なぜ森ビルは長期間を要する開発が可能であったか @バブル時期にほとんど不動産投資を行わなかった。結果、不良債権を多く抱えることもなかった。 Aテナント入居率も90%以上で安定している。 B中国への進出にも手を出したが、リスキーなものには手を出さなかった。 ● 森ビルは巨額債務を抱えながら、大型プロジェクトを次々と仕掛けられるのか @金融機関から無担保融資を受けることができた。 A政府の低金利政策によって金利負担も過小であった。 B賃貸料も下げ止まりとなった。 などがあげられる。 (4)森ビル株式会社グループ連結業績―――別紙@ ○森章 2000年から単独で米経済誌「フォーブス」に世界の富豪 ○財務資料をもとに森トラストの安定性、収益性、成長性、返済能力を分析するため に、合計12の指標を掲げ、それぞれの比率を算出。株式資本の少なさが目につく程度で、他は及第点あるいはそれ以上。 (5)各種政府機関のメンバーに入り、「都市再生」事業の実現に暗躍 ○森稔、小渕内閣の経済戦略会議のメンバーに他の経済戦略会議のメンバーに「森さんは会議にくるたびに都市再生のことばかり を言うので、最後はへきへきした」と酷評する場 面も。「日本経済再生への戦略」(99年2月) ○1998年4月、経済対策閣僚会議で総合経済対策「都市再生法に基づく認可手続きのスピード化が盛り込まれた。国土交通省の「で きるだけ多くの同意を得て」という国土交通省通達の但し書きが削除された。 ○小泉内閣の総合規制改革会議 「経済戦略会議」の流れのなかで、小泉内閣の下で「総合規制改革会議」が発足。都心部の容積率の緩和が次々とおこなわれた。 建設需要を喚起し、東京の国際競争力を引き上げる、というのがその名目であった。 6)政界との強いつながり ○六本木ヒルズ、上棟記念パーティー(2002年4月8日) *小泉首相「まさに民間こそが、これからの都市再生、経済再生の鍵を握っているのだという見本」 *竹中平蔵大臣「この上棟記念パーティーが、日本の都市再生のひとつのシンボルになるきっかけになる。 *行革大臣(後国土交通大臣)「森社長に規制が多いから(六本木ヒルズの)着工に17年もかかるのだと叱責された。都市再生法 もできたので、今後は六本木ヒルズのような再開発が、もっとスピードをもってつくれるように考えていきたい」 ○定期借家権 1997年7月「良質な賃貸住宅等の供給促進に関する特別措置法」自民、自由、公明で成立。正当事由制度の廃止、経済戦略会議 提言で定期借家制度の導入 ○アークヒルズクラブ 国内外の政・官・学、1000人、勉強会や講演会を開く交流サロン。 上記のように「都市再生」という政府の方針づくりに関与し、デベロッパー(森ビル)の要求を露骨な形で押し通していった。 |